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世相

平成16年 正月

  • 2004年01月

「重慶」
 2年ぶりに重慶を基点に商談に行ってきた。重慶の新市街の変貌ぶりは目を疑うばかりだ。高架の道路が錯綜し、この立体都市を見事なまでに近代化しつつある。空港周辺にじわじわと拡大する居住空間、4番目の直轄市は中国の奥地ではあるが確実に近代化への一途をたどっている。
 今回は一人で商談に乗り込んだ。重慶から高速道路で2時間の地方都市、空港まで迎えに出てくれるとの事と、英語のわかるスタッフが居るとの事で一人で行ってみた。向こうの中途半端な英語、こちらの片言の中国語、筆談で売り込みを図ったが、最近中国の商談が増加中でもあり、やはりこの5年位でもっと中国語が喋れる様にならなければと痛感したものだ。タクシーに乗ったり街の餃子屋で水餃子をつまみながら_酒(ビール)を一杯やったり(餃子はご飯と同じ主食なので、餃子だけ頼んでの一杯はいつも不思議な顔をされるのだが)するのに不自由はしなくなったが、もう少し商談が出来るようにならなければならないと実感した今回の出張である。

「上海」
 以前上海は虹橋(ホンチャオ)空港だけであったのが、国際線用の浦東(プードン)国際空港ができて、乗り継ぎがやっかいになってしまった。最近両空港間の移動にバスの方が良いのに気が付いた。安い・安心・正確・タクシーほどでは無いが頻繁、そして何よりも英語のわかるバスガイドが居る事と、オシボリ、ミネラルウオーターのサービス、肘掛の上げ下げといたれり尽くせりの気の使いよう。タクシーの比ではないのです。まさに中国は競争社会真っ只中を実感。

「外交下手」
 同じ中国の南の海岸部でとんでもない事件がおきた。珠海(チューハイと発音する)市だ。日本人三百余人が現地女性をほぼ同数ホテルに呼び込んだらしい。売春・買春は殆どの国では違法であり、本件は違法行為である事には間違いない。経緯からしてこの都市では通常この様な事は日常的だったのであろうが、かかわった総人数が常識の範囲を超えている。早速中国当局は「日本政府は日本男性の道徳教育をしっかりして欲しい」とコメント、これに対し川口外務大臣は「女性の尊厳を犯して、誠に遺憾」とコメントしてしまった。本件は強姦ではない、違法ではあるが、世界でもっとも古い商売の一つである売春・買春がビジネスとして完結したに過ぎない。双方合意だ(ただ数が多すぎた!)。「はい、本国は海外に旅行する男性の道徳教育をもっとしっかりやる事に努力しましょう。しかし貴国は、貴国で、貴国の若い女性が日本のすけべ男に、簡単にお金で体を売らない様にしっかり教育して下さい」とやってやれば一件引き分けで落着したんじゃないだろうか? とかく川口外務大臣は北朝鮮拉致被害者から評判が悪いが、今回の件で、やはりピントがずれている人なのかも知れないと思った次第です。

「続トイレ」
 先般、またインドに出張した際(何故か毎月の様に行っているわけなのですが)また新しい発見をした。国内線が五時間近く遅れてしまい、予定であれば正午の到着から五時間あまりの山岳ドライブで明るいうちに工場のゲストハウス到着の予定であったが、夕方五時からスタートしたものだから、到着は深夜になってしまった。インドの国内線が二・三時間遅れるのは毎度の事でさしてびっくりもしないが、五時間も空港で待ちぼうけを食わされるのは時間つぶしも大変な事だ。
 また、夜間の車の移動は事故の確率が高まるのであまりしたくはなかったが、翌日の商談時間を変えるわけにもいかず、インド人商社の連中と一緒に夜間ドライブの羽目になってしまった。途中三時間ほどは町から農村地帯の平坦なドライブで、後の半分は山岳地のハイキングコースさながらのドライブとなる。農村地に入ると、車道ぎりぎりで車道に向かって何人もしゃがんでいるのに出っくわす。はたから見ているといつ車が飛び込んでいってもおかしくないところで、一人で・あるいは連れだって老若男女目の前に水を入れた容器を用意してしゃがんでいる。言わずと知れた就寝前の大きい方のトイレットタイムである。
 前回記載した列車線路脇の朝の営みと、今回は予期せぬ夜間ドライブで幸運にも朝夕それぞれを観察するチャンスに巡りあう事ができたものだ。

 トイレは「しゃがみ」か「座り」の二種類だ。つい最近まで圧倒的にしゃがみ式だった日本のトイレも最近では座りの方が多くなってしまったようだ。腰のしっかりした伝統が失われてしまうことは寂しい。世界でいつごろから座り式トイレが出てきたのか面白いところだが、多分ヨーロッパだろう。足の長い彼らが長時間のしゃがみから立ち上がる困難が座り式トイレを考案させたに違いない。
世界を見回せばしゃがみが圧倒的に多いはずだ。アジア・インド・アフリカの殆どはしゃがみだ。北米も南米もオーストラリアも後から来たヨーロッパの連中の以前はしゃがみだったはずだ。かつてユーゴスラビアに行った時、ドライブインのトイレがしゃがみでびっくりしたことがある。ヨーロッパの一部ではまだしゃがみらしい。
 さて、日本のしゃがみと世界のしゃがみと同じしゃがみでも大きく違う点がある。日本の場合扉を開けそのままの向きでしゃがむのが常だが、他国のしゃがみは回れ右をして扉に向かってしゃがむ。今でもおおくの中国のトイレはオープントイレで、扉のない「大きい用」がけっこう普通だが、入って空いている所を見つけると先客と目が合いにらまれる事になる。言うまでもないが、回れ右するのは敵に対する安全のためだ。日本では安全よりは、用便中のあられもない姿を背中を向けてそそとやる優雅さの方が選択されたんだろうと勝手な想像をしているが、安全に対する実情が根本的に違っていたのだろう。最近は、私は中国の地方の工場の川流れ式オープントイレでしゃがむのにも慣れて来た。必要があればやむをえない。しかしかつてどこかの国の個室トイレで回れ右しないでしゃがんでやってしまい、事後のブツが何度流しても流れなくて往生した記憶をふと思い出しました。


 
「オートマ車・ミッション車」
 英語で言うオートモービルは日本語でもそのまま自動車だ。韓国もチャドンチャ、漢字表記で自動車である。中国では自動車は汽車である。(ちなみに列車の汽車は火車)中国に自動車が入ったのはかなり古くて蒸気式の自動車だったからであるのかどうか、ご存知の方があればお教えいただきたい。
 水が沸騰すると蒸気が発生し、これを閉塞した容器の中でやれば非常に高圧の圧縮蒸気が得られ、この圧縮体をシリンダーの片方の部屋に導けば大きな推力を得られる。ジェームスワットの蒸気機関だ。現在圧縮空気はコンプレッサーと言う機械を電力で回転させて得るのが普通であるが、そんな大掛かりな機械ではなく、やかんのお化けで高圧な気体を得られ、動力として活用しあの産業革命に導いたものである。今考えてみても、シリンダーを動かすのにコンプレッサーでは無く、薬缶に毛の生えた装置と火と水があればできるわけだから当時の何もなかった時代では画期的な動力源であったはずだ。少なくとも動力で圧縮する事は困難であったはずで、高圧蒸気はもっとも手軽に得られる高圧体であった。シリンダーの大きな推力はクランクとコネクションロッドの機構で回転運動に変換させ、あの蒸気機関車が開発される事になる。そもそも大きな動力は水車とか風車とか自然の流体から得ていたから誠にその日まかせで、蒸気機関は人間の自在にコントロールできる大変有利な動力源として内燃機関が開発されるまで多くの分野で活用された。大きな釜を石炭で常にたき続けなければならないと言う蒸気機関の最大のデメリットを解消したのがガソリンエンジンとディーゼルエンジンの内燃機関である。エンジンは始動後常に回り続けるため、この回転力を必要な時に動輪に伝えたり、停車時に接続を切る為にクラッチがあり、回転トルクと回転数を有効に動輪に伝え、スタート時や坂道での高トルクを得たり、走行時高速を得るため歯車のかみ合いをかえるミッションギア機構が組合わされた。ロー・セカンド・トップとシフト変換するたびにクラッチを入り切りする煩雑さが嫌われ、最近はノークラッチやオートマ車と総称されるトルクコンバーター車が圧倒的台数になった。ギアチェンジ式の車の生産量が減るにつれ、車の生産台数が増えてもミッションギア製造メーカーの成績が不振となって行った記憶が今でも脳裏に焼きついている。
 しかし常にすべりが介在するオートマ車の動力伝達効率よりも、がつんと噛み合うミッション伝達の方がエネルギーロスが無いに決まっており、燃費を向上させ二酸化炭素の発生量を削減させる目的の為に、ミッション車の見直しが大きなテーマになってきている様だ。簡単に言ってしまえば、トルクが減って速度が上がるにつれ、自動的にかつん、かつんと歯車が自動的に切り替われば良いだけの問題ではある。(実際に開発に従事され苦労されて居る方には大変失礼な言い様かもしれませんが)歯車メーカーの過去の不振挽回の大きなチャンスがまためぐり来たる気配である。さらに、かつんかつんと切り替えが身に感じられる様でも困り、これをスムーズにするには噛み合い比をもっと細かくしなければならず、そうなると6速、7速、8速と1台の車で必要となる歯車の数も増える。大変な生産量の増加も期待できるかも知れない。過去の遺物が周囲の条件の変化でまた最先端に返り咲く。あきらめずに違った道を模索して前に進む事が大事な様だ。まさに温故知新、となればプレスのシーラカンス、弊社のスクリュープレスも存外まだまだ活用の道が沢山あるかも知れないと意を強くする今日この頃です。そういえばミッション部品のシンクロギアーはスクリュープレスで沢山作っていた・・・。

「厳島・ニライカナイ」
 厳島神社の海にそびえる鳥居を見ると、沖縄のニライカナイ伝説をふと思い出してしまる。ニライカナイは想像の楽園で、大昔、ここから先祖が海を渡り沖縄に来島して国を作ったと言う物だ。沖縄は小さな島々の集合体であり、常に海と向かい合う必要のある人達は海洋民族でもある。島々のあちこちにある御嶽(うがん)は地元宗教の社であるが、ここでの祭事はノロと呼ばれる女性(大概が老婆)が取り仕切る。祭られているのはニライカナイの神であり、海からの豊穣を祈願する。厳島神社の鳥居を神社側から見ると、海からやってくる豊穣を迎えるにふさわしい造りで、沖縄の島伝いに北上した文化の匂いが濃厚にするのである。
 日本は海の向こうからあらゆる文物がやって来て混じりあって出来た国だ。遠くボルネオからフィリピン・台湾・沖縄を経てやって来た海洋文化もその一つ。ふんどしはこのルートからの文化で、ちなみに中国にも朝鮮半島にもふんどしは無い。太平洋を背中にしているが為、あらゆる文化伝播は日本を終点とした。異民族との大きな争いが無く文明の破壊が無かったので、ウエルカムした文化は大して変わる事なく存続した。呉音・明音など一つの漢字に読み方がたくさんあるのも、本家中国では戦いの都度に勝った側の発音が使われ、負けた側の発音は人々の消滅と共に消え去り、どんどん読み方が変わっていったものを、日本ではその都度新しい読みが輸入され、昔の読みも後生大事に使ったものだから、いつの間にか読みがたくさん出来てしまった。沖縄のさらに先の先島と呼ばれる石垣島近辺では小さな島毎に独自の文化があるとも聞いた記憶がある。ある島の風習を調べると日本の平安時代の風習がわかるらしい。島ごとの往来が少なく、いったん伝わった太古の風習が変わる事なく今の今までそのまま残っているからである。多くの文化の終着点として異民族との争い無く、長い間独特の発展を遂げた日本も、その先怒涛で何も無いと思っていた海から突如現れた、たった四杯の蒸気船で代表される欧米列強の植民地政策により開国し、大きく変貌して行く事になる。

「ベジ・ノンベジ」
 インドの飛行機での機内食サービスの際に、スチュワーデスから聞かれる言葉だ。料理トレーの減り具合からして見ると約三分の一がノンベジ、三分の二が菜食主義者ベジだ。工場の給食は公平を期して完璧なベジ、野菜だけ。まず手を洗い、直径四百ミリ・深さ五十ミリ程度の寸法のステンレス製の丸盆を自分で洗う。それにご飯を食べられるだけ直接盛り、小さなステンのお皿3から4個に各種カレーを入れ、そのカレーをご飯にかけて、基本的には右手でこね回して食べる。白いヨーグルトもあり、それとカレー・ご飯をごちゃごちゃに混ぜくって食べる様は圧巻としか言いようが無い。毎度の昼食はこのメニューから変わる事は無い。ベジ食には一切の肉・魚介類は無い。純ベジは卵も食べない。豆・穀類・野菜・チーズと乳製品だけである。かつてインドのマグドナルドがフライドポテトを揚げる油に風味を出す為に若干のラードを入れていたことが発覚し、大問題になった事がある。純ベジのインド人をお客様として迎えるのは例えようも無く大変だ。食事の時間帯になると頭が痛くなる。食べる喜びは人生の大きな幸せでもあるはずだが、肉・魚介類・卵がだめなら味わいの七十パーセント余りを放棄している事になる。人口の多い中国では過去、どんな材料でも食材として活用しなければ食いはぐれる可能性があり、不味い食材も美味に仕上げるマジックが各種中華料理として発達した。あらゆる材料をおいしく調理して賞味する、食べる為に働く食文化だ。日本人も、まさか犬や蛇やハクビシンまでは食べないが、馬も鹿も鯨も野鳥も食べる雑食民族だ。宗教的に豚を食べない、牛肉を食べない、野菜しか食べない人達の心理を我々は到底理解できないのである。異文化を理解するのは食事のたった一面だけでも大変な事を、広く海外へ出向いて行くと実感するのである。

「トルコ政府・日本政府」
 先日何かのテレビ番組で、イラン・イラク戦争の時イランに取り残された日本の企業戦士とその家族を、トルコ政府が取り残された日本人民間からの依頼に対する好意でトルコ航空機を特別に救援の為運行差し向けてくれて救出してくれた物を見た。当時の記憶は私もおぼろげながらに残っている。トルコ・イスタンブールは私も展示会出展で一度滞在した経験があるが、実に親日的な国だ。その番組は、なんでも過去紀伊半島沖で座礁したトルコ海軍の船員を日本の民間が手厚く介護した恩返しである趣旨も盛り混んであり、美談、そして恩返しと実に心打たれるノンフィクションなのではあるが、トルコ航空機が飛ぶ前早々に、日本政府は救援の中止を公式に決定し、イランに取り残された人々に通告したそうで、欧米各国が自国救援機を飛ばして自国民を救出するも、限定する座席数から自国民救出が優先で、日本人はそれら飛行機に乗る事を拒否された事実と絶望感を聞いた際、当時の無責任な日本政府の有り様に(今もそうでしょうが)、人知れぬ憤りを感じた次第です。

「二千六年」
 工作機械がこの年あたりに再度売り上げのピークを迎える予定であるとの発表があった。谷を終え、山に至るらしい。弊社も昨年の夏過ぎからじわじわ受注が増加してきた。この発表もうそでは無い感じがしてきている。主要鍛造業のお客様もかなり忙しい様だ。
二千四年、アテネオリンピックの年。北京はその四年後、それまで中国経済は上昇するに違いない。本年一年が皆様のご多忙の年になります様祈念申し上げます。

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