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世相

平成23年 夏

  • 2011年08月

「生ける地球」
生ける地球、活動する地球、動く地球、決して安定している訳ではなく、超長期的に見れば我々人類が生存している期間があくまでつかの間の時であり、大変動は繰り返して起こって来た地球である。不安定極まりない地球に住む人類にとって、あまりにもむごい天災が時として牙をむいて容赦なく襲いかかる。コップ一杯の水はあくまでおとなしく、我々の渇をいやしてくれる神の恵みなのであるが、これが大量に集まると手をつけられない津波となって逆に我々を飲み込んでしまう。千年来の規模の巨大海中地震に誘発された想像を超える津波は一瞬のうちに数万の我が同朋を飲み込んでしまった。

「運命、一刻一秒」
天命・宿命・運命とあるが、運命は変えられる。数秒の差で高台に逃れて助かった人も多かったであろう。しかしあの津波の映像を思い出すにつけ、あまりの惨さに、何が運だったのであろうかと呻吟せざるを得ない。

「原子力発電所」
一向に収束の目処がたたない福島第一原子力発電所。全てが想定外との釈明だ。千年来の地震と津波だが、想定に甘さがあったからこの様な結果を招いてしまったのは紛れも無い事実だ。しかしながら、人類の進歩は全て失敗の積み重ねから醸成された。勿論進歩が全てにおいて、また絶対に良しという事は断定しない。しかし強い代替があるのであれば良いが、原子力発電所抜きでは、電気需要はまかなえず、電気無しでは現在生活が成り立たないのも事実である。過ちは二度と繰り返してはならないが、全てやめてしまって元に戻るのであれば、進歩は無い。技術者の端くれとしては、原子力による発電はやめてしまう事には反対であるのだが、しかし今回の事故で、当分民意が新規原子力発電所の設置を許さない事も事実として認識している。

「社会主義化した教育」
競争を否定して誰しも平等であるという社会主義体制は崩壊した。誰しも平等であると皆働くのがばかばかしくなり国が衰退した。中国を筆頭として多くの国の社会主義体制は競争社会に移行し、世界経済の主導権を握りつつある。競争が国を強くしているのである。競争を否定した教育を受けた若者達が社員になりはじめて苦労している。どん欲さが少ないのである。企業は競争社会であり、努力しない者はふるいにかけられ落とされる。給料も増えないし職を失う。日本に居ては外国企業とは太刀打ちできず、ふるいにかけられて落ちてしまうが故に企業は海外に転出もする。教育はこの厳しい競争社会の現実を厳しく教え込んでもらいたいものだ。競争の順位、成績の順位きちんとめりはりつけてもらいたい。しかし「なんでうちの子の成績順位がこんなに低いのか!」とねじ込んでくる母親もまた居るのだろうか?

「一等車、グリーン車、競争回避」
グリーン車という呼称を昔の国鉄が使い始めてかれこれ30年は経っただろうか、外国から来た人が理解できないふざけた呼称である。何がグリーンなのだろうか?いっそ飛行機の様にエコノミークラス、ビジネスクラスにした方が余程理解できる。飛行機にはファーストクラスもある。もともと列車は現在の船の様に、一等車・二等車だったものが、変に差別にこだわって普通車とグリーン車という訳のわからない呼称に変えてしまった。競争は悪であり、平等を良しとする社会主義的発想だったのであろうが、実際中身は依然一等車と二等車なのであり、ただ単なる言葉のすり替えにすぎなかった。財布の中身が潤沢で、一等車に乗ることもいとわなくなった連中はそれはそれで勝者の権利である事に他ならないのであり、競争社会の結果でしかない。いかに名前を変えても競争は回避できない。

「官から民へ」
道路管理、水道料徴収など、官から民への業務委託が増えているのであるが、なぜ民間に委託したほうが安くなるのか理解に苦しむ。なぜ官がやると高くつくのか、そもそもそこから突っ込んで行くべきなのではないだろうか。根っ子を押さえず、上っ面の帳尻合わせだけだ。これじゃ徹底的に税金を安くする事は出来ない。官がやっても安くつく様に徹底的に官を整理すべきだ。徹底的に効率を追求させる事が筋なのではないか。大体にして民間から見ると、公務員の処遇は一律手厚すぎるし、休みばかり多い様にも見える。

「ブラジル」
2008年のブラジル移民100年記念、現在日系ブラジル人も3世から4世の時代に入ってきている。ブラジルに行って往生するのは食事である。肉ばかりで量が多く、また口が曲がる程の塩辛さに参ってしまう。結果は超肥満体と高血圧になるのが自明の理だ。日系ブラジル人の多くが暮らすサンパウロのあちこちに和食レストランがありそうなものだが、サンパウロ中心部にある日本人街リベルタージュを除いてほとんど無いので、食事の息抜きができずに参ってしまう。聞いてみるとすでに2世からブラジル食に馴染んでしまうかららしい。さすがに寿司ショップはそこここに点在しているが、楽しみにしている日本の味とはほど遠いブラジル風寿司ショップで、日系以外のブラジル人の方が利用客として多い。なにしろ手巻き寿司の上から醤油差しで直に醤油を流し込み、下からジャブジャブと流れ出しているのだ。これにはさすがにびっくりした。

「フェイマフェ 2011」
5月23日から261sesou2307日、ブラジルのサンパウロでFEIMAFEという機械および工具切削機器の国際展示会が開催された(写真)。FEIはフェアとインターナショナル、MAはマシン、FEは付帯する工具類の一部を指している。2年毎に開催され、メカニカ(MECANICA)という国際工業品展示会と交互に同じ場所で開催されている。訪問客数はメカニカの方が多いが、工作機械・プレス機械の出展台数はフェイマフェの方が多く、こちらの方が機械専門展の色合いが強い。メカニカは工業製品全般なので、訪問客も一般工業関連と層が広いので客数も多いのであろう。
弊社としては念願のブラジル出展だ。メカニカは2年前から小間の確保御願いをしていたのに、結局満杯で小間がとれず、昨年の出展は出来なかった。フェイマフェも当初はキャンセル待ち状態だったが、なんとか一小間確保ができた(写真)。
3sesou23072sesou2307サンパウロ市街からグアリュホス国際空港へ向う途中のアンヘンビ展示場は78,000m
2であるが、単一の建造物。建物に入るとずーっと遠くまで展示場が広々と見渡せる(写真)。今回の出展社数はおよそ1200社、来場者は7万人を超えたという主催者側のデーターである。
サンパウロの5月は冬にさしかかり長袖で無いと薄ら寒い。そして会場内のレストランでは、牛のステーキの調理をしているので、会場内を朝からバーベキューの臭いが充満し、食傷気味になる(ブラジル人に言わせると朝から食欲が湧くのだそうだ!)。
ブラジルがいかに若者に技術教育をしているかが垣間見る事が出来る展示会でもあった。毎日多くの学生が会場に押し寄せた(写真)。4sesou2307多くがSENAIというアルファベットがプリントされているTシャツのユニフォームを着ているのだが、SENAIとは一般の普通高校の授業とは別に用意されている技術教育の場で、全国工業関係職業訓練機関と呼ばれる。展示会場のブースにはSENAIのブースもあり(写真)年代毎の古い工作機械が並べられて、さながら博物館の様だが、それぞれの5sesou2307古い機械を生徒が操作して実演もしているのである。多くの展示会を見ているが、この様な事はブラジルが始めての経験だ。
ブラジル地元企業のブースに、先進の工作機械が多いので子細に機械を検分していたら、油圧装置や電気装置の表示に漢字表記を見つけた。多くの機械が台湾製であった。OEMも多い様に見えた。出展していたファナックによると、出品機の素性は、台湾30%、ブラジル28%、日本14%、中国10%の順であるようだ。聞くところによると工作機械を買う客層の多くがファイナンスを組むらしいが、輸入機ではファイナンス利用ができず、なんらかブラジル国内の企業を直接購入先にしなければならないという事だ。OEMが多いのも理解出来た。

「 ベトナム MTA」7月5日から8日の4日間、ホーチミン市のSECC(サイゴン・エグゼビション・コンベンション・センター、写真)7sesou2307でMTA ベトナムが開催された。毎年7月にシンガポールの会社が主催している機械などの工業製品の展示会だ。こちらは出展者数350社ほど、展示面積7,000m2、4日間での入場者総数が1万人弱と規模は小さいものの、毎年開催され、今回で8回目を数えてい6sesou2307る。今回は台湾のナショナルブースが圧倒的規模で小間を張り(写真)、次いでシンガポールが広い面積を確保した。力負けした日本のジェトロブースは過去二回出展の実績にもかかわらず中央部の良い場所を同規模のタイのブースに譲り渡し、端の方へ追いやられてしまった(写真)。
現在ベトナムへの投資規模は、金額ベースで台湾、韓国、シンガポール、日本、マレーシアがほぼ拮抗してそれぞれ約2千億ドルづつである。投資案件では日本が約一千五百件、韓国が約二千七百件と、韓国が他国を圧倒的に引き離して上位に位置する。ホーチミン市中央8sesou2307の、どこからみてもランドマークとして目印となる六十八階建ての最高層ビルは韓国の建築会社が建設した。見本市展示会場のあるニュータウンである七区地区、多くの店はハングル文字だらけで(写真)、まさにコリアンタウンが出現したかの様相である。
共産党政府牛耳る大きな国営企業とは別に民間9sesou2307企業も力を伸ばしてきている事は事実で、工場の拡張や設備の増強期に入ってきているのではあるが、機械加工業、製造業にはまだまだ総力としての投資マネーの規模が少なく、引合いも多くが中古機械である。総人口はいずれ一億に達するのは確実であり潜在的なマーケットはあるのではあるが、新品の機械を導入できるレベルに達するにはまだ少し時間が必要と見られる。

 

「インド、満遍なく広がる産業地図」
広いインドには満遍なく諸工業が分布しており、それを片っ端から歩き潰すには少なくとも一ヶ月は優に必要であろう。

■首都デリー近郊
デリーの南西部に位置するグルガオン地区(ここからはデリー・ジャイプール道路に沿いダルヘラから隣のラジャスターン州のパスレーディなど工業地域は大きく広がりを見せている)は古くからマルチスズキ、2輪のヒーローホンダ(最近ヒーローグループとホンダは袂を分かっている)を核とした工業地域である。マルチスズキはマネサールに新工場を増設しさらに生産台数を拡充しており、日本の工場の生産台数を凌駕してしまった。これら完成車メーカーに直結した鍛造業も多数点在している。
デリーの東に位置するウッタルプラディーシュ州は通称UP(ユーピー)と呼ばれ、デリーから車で至近距離にあるので、グレートノイダを代表して多数の工場集積地がある。ホンダの4輪工場はここノイダにある。中規模の都市であるラックノーは、遠くUPの中央部に位置しているが、ここにはかつて韓国大宇の工場があった。10年以上前には大宇の車は結構見かけたが、勿論最近はまったく無い。
北部では隣のパンジャブ州に至るまでの間の地域、南部は観光地で有名なタージマハールに至るまでの間で広範囲な工業地域が広がりを見せている。
デリーのはるか北、パンジャブ州内にあるルディアナ地区にも工業は集積している。ヒーローグループの元祖、自転車のヒーローサイクルもこの地区にある。ここを拠点とした伝統的機械装置産業もあり、インド製工作機械やプレス機械などが多数製造されているが、インドでは感覚的にルディアナ製というとレベルの低い、場合によるとコピー商品の代名詞的な意味も含まれる。鍛造工場はあちこちに広く沢山点在している。

■ムンバイ(旧称ボンベイ)を中心としたマハラシュトラ州10sesou2307インドのデトロイトと自称しているプネはタタ(Telco社)、マヒンドラ&マヒンドラ、バジャジオートなどの自動車産業を核にして、インドのトップレベルの鍛造会社バハラットフォージに代表される多数の鍛造業も集積している。最近高速自動車網が整備され、ムンバイからプネ間は、以前は飛行機も利用したが最近は自動車での往復の方が手軽になってきている(写真)。

ムンバイの北東にあるナシックには20を超えるワイナリーがあり(写真)、Sulaというワインブランドはインドでも有名で味も悪くない。ここ11sesou2307にはマヒンドラ、ボッシュなどを中心とした工業の集積がある。ナシックのさらに東にはオーランガバードがあるが、ここはアジャンタおよびアローラの石窟への観光の拠点でもあり観光客も多数訪れる。オーランガバードにも工業の集積があり、鍛造業も多数ある。ムンバイからはるか南、観光で有名なゴアの手前にはコラプールという場所があり、ここにも工業の集積地がある。
ムンバイ港はインド第一の商業港であり、デリー地区への大型貨物もここムンバイ港から荷揚げされる場合が多い。ムンバイはどちらかと言うと商業の集積地の様に言われるが、マヒンドラの本工場もある。

■ベンガルール(旧称バンガロール)
バンガロールという呼称が数年前から公式にベンガルールとなった。カルナタカ州の州都でもある。市内からホースーに至る間には多数の鍛造業が集積している。マイソール、トムクールなどの衛星的工業地区もある。もちろんここはキルロスカルトヨタの自動車工場がある事でも有名であるが、なんと言ってもここはIT関連の企業の一大集積地である。標高ほぼ1000メートルの比較的涼しい気候が、ここをITの集積地として選択された理由が良く判る。またインド空軍の戦闘機(ミグ、スホイなどのロシア製のライセンス生産)などを製造しているヒンドスタンエアロノーティックス(通称HAL)の本拠でもあり、航空機産業、それに付随した飛行場もあり岐阜の各務ヶ原を思わせる場所でもある。

■チェンナイ(旧称マドラス)
タミルナド州の州都であり、西のムンバイに次ぐ東海岸では最大の国際港湾施設を持つ。
ベンガルールに追いつけ追い越せの勢いでIT関連の企業が集積している。韓国現代自動車の大規模な工場がある。他フォードが工場を持っているが、日産・ルノーがここに進出を決め工場を建設している。コマツの大型建機工場もある。フォード、BMWもチェンナイの為、周辺には多くの鍛造工場が点在している。 チェンナイは目下インフラ整備に最大規模投資をしており、チェンナイ空港も現在ターミナルビルの拡張整備中である。
チェンナイから海岸沿いに自動車で約4時間南下した所に元フランスの植民地であったポンディシェリーがある。西欧諸国はこぞってアジア諸国の植民地化を図り、冨と財産を総なめにして自国に持ち帰ったのであるが、圧倒的な力をもってインドはイギリスが植民地化したものの、ここフランスのポンディシェリーや、ポルトガルのゴアなど、虫食いの様に他の国の支配地域もあった。植民地時代からの経緯で現在ポンディシェリーは独立自治が認められており、独自の工業誘致を優遇税制をもって展開している。鍛造工場もある。
チェンナイから空路南部に一時間の距離にトリチラパーリ(通称トリチー)があるが、ここはインド最大規模のヒンズー寺院で有名で多くの外国観光客も訪れる場所でもある。最近タミルナド州政府が積極的に工場誘致を図っており、多数の規模の大きな新設工場がある。

■コルカタ(旧称カルカッタ)
かつてイギリスの植民地政策の拠点であり、東インド会社の本拠地でもあった。ヒンドスタンモーターの工場があり、依然国民車と称しているアンバサダーを製造しているが、前次代のこの車を買うのは政府関連しかない完全に政府紐付き企業である。ガンジス川の川沿いに古い工場集積地が多数点在しており、鋳造、鍛造、機械加工の多数の工場がある。ここ西ベンガル州は一時タタモーターの20万円車、ナノの製造工場を作る予定地であったが、地元反対勢力による強烈な反対運動により頓挫し、結局グジャラート州のアーメダバード近郊に作られる羽目となった。もともとコルカタは労働組合が強く、多くの事業主はコルカタでの事業展開を諦めてしまって撤退しており、残念ながらコルカタには過去のインドの中心地であった面影を見る事ができない。

■ジャムシェドプール(タタナガール)
タタスティールの一大拠点である。一般的呼称はジャムシェトプールであるが、タタの街という意味のタタナガールとも呼ばれる事もある。コルカタから列車で5時間以上かかる辺鄙な場所にあるが、ここで鉄鉱石が産出されているが為にここに製鉄工場があるのである。かつてここはビハール州であったが、数年前に分離独立しジャルカンド州となった。ここにはタタ・日立建機の合弁工場があり、またTelco(タタモーター)が製造するトラックの鍛造工場もある。周辺には関連企業が広く点在し、鍛造工場も多数ある。ジャムシェトプールの駅はなかば乞食の住居と化しており、夜ともなるとプラットホームはずらりと並んで寝ている乞食達のベッドルームになってしまうのである。プラットフォームでの列車待ち、多数の乞食の子供達に囲まれ喜捨をねだられるのであるが、目やに一杯の子供に触られるのはあまり気持ちが良いものではないのである。
ジャルカンド州では共産党毛沢東主義派のテロが多発しており、農村部での治安は最近あまり良く無い。

■ビシャクハクトナム(通称バイザック)
東海岸ではチェンナイとコルカタに次ぐ国際港湾施設があり、現在インフラ整備中である。インド海軍の軍港もあり潜水艦も係留されている。ここはアーンドラプラディシュ州であり、州政府としては港湾に隣接した工業集積を図っている。ここからは陸路山越えをしてオリッサ州に入る事ができる。オリッサ州はインド大陸内部にあり高地でもあるので軍関係の工場がある。かつて面積はかなり広大であったが、最近一部がチャティスガール州として分離してしまった。

■ボパール
インド中央部、マディアプラディシュ州の州都である。鍛造を含めて工場集積がなされているが、ここは1984年に発生したユニオンカーバイド社の殺虫剤・農薬工場から深夜漏れ出した毒ガス(イソシアン酸メチル)により、未明までに2000人以上が死亡、最終的には25,000人に及ぶ死亡と50万人に及ぶ後遺症患者を出した事故でも有名な場所でもある。
かつてここにある自動車部品鍛造工場を訪問した際、すでに日本人が来た事があるといって写真を見せてもらったが、産総研の篠崎先生がその写真に写っていたのでびっくりした記憶がある。

■ラジコット、アーメダバード
ムンバイの対岸に位置するグジャラート州の都市である。アーメダバードは州都であり、タタのナノの工場はこの近郊に建設されている。しかしながらアーメダバードでナノを見る事はほとんど無いのが不思議である。ラジコットは鋳造や鍛造のインドに於ける一大集積地となりつつある。ベアリング関連の鍛造業も多い。

「インド自動車メーカー」
インドの1人あたりのGDP はおよそ1,200ドル、対して中国は4,500ドル相当である。自動車生産台数は昨年インドではおよそ200万台、対する中国は1,500万台であり、所得差からくる自動車の需要から見るとインドはまだ当分中国には追いつけないのが実情であろう。しかしながら2010年から2012年に至る2年間で自動車の製造台数は2倍の400万台に達するという見込みがあり、現在自動車メーカーも部品サプライヤーも生産設備の拡充に日々追われつづけているというのが実情の様に見える。

1970年代のインドの乗用車と言うと、国民車と言われたヒンドスタンモーターのアンバサダー(イギリスのモーリスオックスフォードのデザイン)(写真)と、プレミアオートモービルズのバドミニ(イタリアのフィアットのデ12sesou230713sesou2307ザイン)(写真)が圧倒的多数であった。プレミアはムンバイを主に多く見られ、アンバサダーはおよそ各地で見られた。社会主義体制のもとで、この2車種は長い間ほとんどモデルチェンジ無しで販売を継続した為、世界各国の自動車の新技術に対して大きな停滞を招いてしまった。1982年にこの体制に風穴を開けたのが鈴木自動車のアルトである。生産はインド側の出資がメジャーであったマルチ・ウドヨグ社で、鈴木自動車の出資比率は26%と、当時は半分にも満たなかった。スズキが進出する際に綿密に調査したインドの自動車事情によると、毎年のインドでの自動車生産台数の総累計と当時インド国内を走行していた自動車の総台数がほぼ一致していたらしく、つまり生産された自動車がほとんど廃車されずに走り続けていたという社会主義体制ならではの実情であった様だ。購入の申込をしてから相当期間経過しないと実際に納車されなかったと言う。
15年前位は首都デリーでも相当数のアンバサダーが走っていたが、最近は見つけるのも困難になってしまった。ヒンドスタンモーターの工場があるお膝元のコルカタではまだ多数走っており、黄色いタクシーはほとんどアンバサダーだ。
純インド国内メーカー、タタが力こぶを入れてリーマンショックの前に発表したワンラックカー(1ラックは10万を指し、つまり10万ルピーの車で、現在では約20万円)ナノは現在インド国内で見つけるのも困難なほど走っていないのである。価格相応の品質がプライドの高いインド人に好まれなかったという事と、電気系統からの発火など技術的な問題が発生したからの様である。発表から3年以上も経過してしまい、そうこうしている内に他の自動車メーカーが手頃な値段の車を順次発表したため、どうもナノの魅力は薄れて来てしまった様で、戦略的に失敗作であったという感じが否定できないのであるが、最近はかなり盛り返しつつあるという情報もある。

現在乗用車シェアの4割以上をマルチスズキが握り、次をタタモーターズと現代モーターインディアがそれぞれ20%程度づつ抜いたり抜かれたりしている。この3社でインド市場の3/4程度を占めてしまっているので驚異的だ。
以下、シェアではGMインディア/トヨタ・キルロスカル/ホンダ・シェルカーズインディアが続く。
他、日産ルノー/フォードインディア/フォルクスワーゲン/フィアット・インディア/シュコダオート/アウディ/メルセデス・ベンツインデイァ/BMW/ボルボ/三菱自動車、民族系のマヒンドラ&マヒンドラ/ヒンドスタンモーター/アイシャー・モーターズ、等多数の乗用車メーカーがある。

「インド、インフラ整備」
現在インド国内に於ける最大の問題はインフラの未整備である。急速に発展する経済に対して道路・鉄道網がまったく未整備である。また電力の供給が追いつかない。

■電力
電力についてはチェンナイが特にひどく、計画停電も実施されている所があり、エアコンが止まった熱い部屋での切った貼ったの価格交渉では簡単に負ける(勝負と価格に対し)わけには行かないので、多数居並ぶ値切りの達人との汗だくの交渉はまさにサウナ風呂の中の状態での丁々発止の交渉となってしまうのである。私は数年前からインドではスーツ着用をやめてしまった。ラフな格好でないと体が持たないし、相手も余程金持ちの財閥のトップで無い限りスーツとネクタイでは無いからお互い様だ。
インドの連中は包み隠す事なく自分の希望は希望として一切合切ぶつけてくるのが常識で、極めてダメもと、そしてほとんどが強引と、インド標準に慣れるまでには時間がかかるが、慣れてしまうとこっちもインド流になってしまう。日本に帰ってその流儀を時として使ってしまうので、特に家族にはひんしゅくを買うのである。
基本的に工場での自家発電は一般的でもあり補完的にも必要最小限の設備である。
福島の原発の問題はインドでも大きな影響がある。不足する電力をどの様な方途で拡充するか、経済の急発展にともなう電力不足の問題は簡単に解決できない。

■鉄道15sesou2307インドの鉄道網は、いわゆる線路網については見事な程に非常に良く整備されている。植民地時代のイギリスが、インド全土から冨と財産をかすめ取って港に集積し、自国に持ち帰る為に敷設した線路網だ。これら線路網は全部インドから徴収した費用で敷設された。残念な事にその上を走る列車が旧態依然の箱なので一般には外国人は使えない。(写真

また14sesou2307駅舎は、駅利用者、赤帽、物売りのほか多数の乞食とかっぱらいの巣であり、汚物のすえた臭気とトイレの未整備等外国人が1人で利用するのは非常に困難な状況であると言って良い。(写真)
他方デリーではメトロ網の整備が順調に進んでおり、近代的な車輌はすでにインディラガンジー国際空港にまで到達している。チェンナイなど他の主要都市でもメトロの建設が始まっているが、建設の為の道路の一部占有により道路が狭くなってしまっており、これがまた交通渋滞の一要因になっているので当分道路渋滞は各所で解消する事は無さそうである。

 

 

■道路

16sesou2307道路網もまさに整備の真っ最中で、都市部の高架道路、都市間の高速道路がどんどん拡充されている。(写真)

しかしながら折角作った高架道路も雨が降ると排水が悪く水たまりができてしまったり、高速道路もパーキングエリアではレストランやトイレがインド式と(写真)、まだまだ多数の問題がある。

 

 

 

 

■航空および空港
17sesou2307道路・鉄道網が未発達な為、航空路網は非常に充実している。国内線の多くはビジネス客用であるが為か、多くのローカル路線が朝夕だけの運行で昼間フライトが無いなどと言う困った事もある。インドの空港はセキュリティーが厳しく全ての空港ビルにはチケットが無いと入る事ができない。ライフルを持った保安要員が入り口で1人1人パスポート(インド人の場合は何らかのIDカード)とチケットを照合する。困るのは、たとえば旅程を変更をしたが為に翌日のチケットであると中には入れないのである。国内線の場合はビルの外に航空会社のカウンターがあるので大きな問題は無いが、国際線の場合は随分と困る事があった。だが最近はほとんどがe-ticketで大概はA4のコピーであり、そんな物は簡単に自分で作成できるのでこの保安検査も無用の長物なのではないかと私は常々思っている。私自身まま偽物を作ってビルの中に入ってしまうのである。もちろん当日の飛行機に乗るのであり悪用する訳ではないが、きちんとした当日のチケットが無い場合など時々やっているのである。

昨年オープンしたデリーのインディラガンジー国際空港の第3ターミナルは世界トップレベルの綺麗なターミナルビルとなった(写真)。ここにはエアーイン18sesou2307ディア、ジェットエアー、キングフィッシャーエアーの国内線ターミナルも同居しており、国際線と国内線の乗り継ぎという過去の大問題がきれいに解消した。旧国内線ターミナルには、インディゴ、ゴーエアー、スパイスエアーなど中小の航空会社が継続して残っている。新しい第3ターミナルはサテライトが無く、左右にあまりにも広く、遠くに駐機されると息が切れる程の大運動会となってしまうのである(写真)19sesou2307

エアーインディアはインドのナショナルフラッグであり国営である。かつて国内線はインディアンエアーという別組織にしていたが最近統合された。国営であるので組合が強く直近でもパイロットのほとんどが10数日もストライキをして国内線がほとんど運行できなかった。キャビンアテンダントには肥満した老齢なおばさん達が退職せずに多数居座っており、こんなのが毎日乗っていては運行上の燃料効率が悪くなるのではないかと、通路側座席に座り、制服であるサリーに包まれたお肉の塊が横を通るたびいつもおせっかいながら心配をしているのである。もうよせばいいのにというのが正直な感想だ。他方民間のジェットエアーやキングフィッシャーエアーはスリムな若いお嬢さんを徹底的に選別してCAにしており真っ赤なミニスカートや、ぴしっとした洋服で西欧のエアラインとひけをとらないのである。
エアーインディアはかつてタタグループの民間航空会社であったが、インドが社会主義化した際に強制的に国に買い取られてしまった。長い事インド唯一の航空会社であったが1993年に待望の民間航空会社ジェットエアウエイズが運行を開始した。その後エアーサハラ、デカンエアー、キングフィッシャーエアー(インドで最も有名なキングフィッシャービールの製造会社が創設した)スパイスエアー、インディゴ、ゴーエアーなどが雨後の竹の子の様に出来たが、エアーサハラはジェットエアーに、デカンエアーはキングフィッシャーに買収された。いずれのエアーラインもボーイング737など小型の飛行機をこまめに飛ばしている。

■商業施設
インド主要都市のみならず地方にもショッピングモールを代表とする大きな商業施設がどんどんと建設されている。中間所得者層の順調な増加により購買意欲は強い。
10年以上前はジーンズ姿を見ることはあまりなかったが、昨今は若い人達を中心にジーンズがどんどん増えてきている。それに合わせて女性の体型がスリムにきれいになってきた。どちらかと言うと過去女性の体型はボリューム重視一辺倒だったが、最近はそれが変わって来た。エステサロンも大繁盛なのである。

「インド雑感」
インドの国民的スポーツと言うとクリケットである。テレビでクリケット競技が放映されていると皆動かなくなってしまう。テレビの前に釘付けだ。
4月に行われたクリケットワールドカップ準決勝戦、インド対パキスタン戦ではゲームが行われた日の午後はあらかたのオフィスと工場は午後臨時休業となってしまった(写真)。20sesou2307夜のレストランはどこもほとんど満席で客が総出で応援。日本では応援は「ニッポンチャチャチャ」だがインドでは「インディアー インディア!」で大人も子供もまさに騒然。クリケットの難解なルールを知らない私は応援を見ているだけで満足。結局準決勝戦はインドが望み通りパキスタンを下し、決勝戦はスリランカを下してインドが優勝した。
中国とインドとを比較するとまず決定的に問題となるのが食事であろう。インドで最も苦労するのが食事である。一部のインド風中華を除いて基本的に毎日インド食に付き合わざるを得ない。ほとんどターメリックなどのカレースパイスがベースで、青唐辛子もたっぷりで非常に辛い。
水道水の衛生状況が良く無いので水で洗った生の食材、例えばフレッシュサラダとか切った果物などは食べない方が無難である。基本的に火の通った物だけを食べていれば安全だが、私が社員に厳命している御法度食品は、いかなる高級ホテルであっても、フレッシュサラダ、カットフルーツ、ウイスキーの水割り(氷がくる場合がある)、フレッシュジュース、アイスクリームの5点だ。また工場などでは食器やコップが濡れていたら、失礼かも知れないが必ず自分で拭いて使う様にし、極力ペットボトルや缶からそのまま飲む様にと指示している。暑いインドでは体調管理は非常に重要である事は言うまでもない。

かつてのカーストで身分の高い人は皆菜食主義者であり、現在でも仕事で付き合う人達の多くはベジタリアンである。もっともインドではシーフードはまったく美味しくなく(魚もエビもカレーになってしまう)、牛は基本的に無いし、豚も美味しくない。肉類はチキンとマトンやラムだ。従ってインドでは自分もベジタリアンになってしまった方が良い。でないとチキンやマトンの料理は、いつも全量が自分の所に回ってきてしまうのである。これが私のインドで体重を増やしてしまっている大きな理由でもある。暑いインドではあまり歩く事が無い。車で移動、通常ドアーからドアーだ。従って運動不足も体重増加の要因で、インド人自身も肥満が多いのである。
インド料理も慣れてしまうと絶品で美味しい料理も多く、私はビンディーマサラというオクラのカレーをバターナンで食べるのが大好物である。

中国でのビジネスと比較してインドが圧倒的に優位なのは言語である。英語がわかれば一切不自由が無く、1人で移動し、商談も可能である。また契約書類も、契約に至るまでは大仕事だが、契約書に双方がサインすれば反古にされるケースは滅多にない。ただ、リーマンショックの後で、契約後L/Cの発行に遅滞が生じた事はあった。基本的に契約書では無くL/Cの発行をもって全てのスタートにするべきであろう。

日本人が抱くインドのイメージであるが、必ずしも当たっていない。まず「暑い」。確かに夏は暑いがデリーの冬は朝夕摂氏5度近くまで気温が下がり寒い。路上生活者はたき火をする。もっと北部に行けば凍結もし、雪も降る。ヒマラヤが目の前なのだ。
インド人は「頭にターバンを巻いている」。ターバンはインドの中でも少数派のシーク教徒だけが着用している。シーク教徒は毛髪を切る事が宗教上許されないので、長い髪をターバンの中にくるんで頭の上に巻き付けるのである。シーク教徒は北部に多く、従って南部インドではほとんどターバンは見かけない。
「手で食事をする」。確かに多くの人は手で食事をするが、スプーンだってフォークだってちゃんとある。ピザ、サンドイッチ、バーガー、寿司、みな手づかみだ。何もインドが特別では無い。
12億に達する人口と広大な大地、日本とは飛行機の直行便で10時間、隣近所のやっかいな問題が存在せず、中国の後ろをひたすらピッチを上げて走るインドは日本にとって大きな魅力ある市場として存在するのは間違い無い。

「歴史、横糸縦糸、温故知新」
現在の日本の義務教育と高等教育に於ける歴史教育には多くの問題点が存在している。まず世界史から見た日本史を教えていない。例えば西暦千六百年、豊臣と徳川が関ヶ原で戦っていた年に、お隣中国ではどんな時代であったのか、ヨーロッパではどんなであったのか、インドでは、と横糸の繋がりを教えていない。少なくとも、江戸末期から明治維新にかけて隣の清国はどうであったかとか、ヨーロッパやアメリカはどうであったのかとか程度は皆認識しておくべき事では無いだろうか。この当時のヨーロッパ列強の植民地政策は、今の政治的問題にも大きな影響を残している。日本史に於ける縦糸だが、先の大戦になぜ突き進んでしまったかの検証をもっとしっかりと教えておかないといけない。なぜ政治家が戦争を選択してしまったのか。この流れも現在に至るまで連綿と影響が続いていると思っている。昔の事例は若い世代にきちんと引き継いでおかなければならない。これは先に旅立つ者が後に残す者への最低限の義務である。誰しも失敗はするし前向きであればあるほど失敗は多い。ただ失敗は繰り返してはならない。大きな油断という失敗の結果が今回の原発事故である。事故は早く終結して欲しいが完全に終息させるまでは長い年月がかかりそうだ。
この夏の電力事情は危機的だが、おそらく英知に長けた日本民族はこの困難をバネにしてまた一つ前進するものと思っている。省エネ装置や省エネビルなどの高効率の機器、装置、建物の開発。あらゆる物からの電力の回収など、見た限り日本人が得意とする研究案件ばかりだ。政治がだらしないので、民間はその分もっと頑張らなければならないだろう。振り返ればそれも良かったのだ、という時代がきっとくる。

今年前半は悲惨な事ばかりでした。後半は皆の努力でこれを回復させ一年を終了させたいという気持ちで一杯です。御健闘をお祈りします。

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