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世相

平成20年 正月

  • 2008年01月

「沖縄県民斯く戦へり」
 1972年、戦後27年間のアメリカ統治を終了し、沖縄は県民念願であった日本復帰を果たした。沖縄は過去、尚家の王が統治していた独立国であったが、その地理的背景から日本(薩摩藩)と中国(清)との狭間で双方の綱引きに会い、明治維新に至るまで薩摩藩が背後で実質支配する仮の王国として存続するのである。良く中国は「文」日本は「武」そして沖縄は「楽」と言われる様に、沖縄の人々は音楽を愛し、その風光明媚な熱帯の島々の中で平和に過ごして来たいきさつから武器を捨ててしまい、薩摩藩によって容易に制圧されてしまうのである。第二次大戦末期には沖縄島南部は主戦場として否応無く巻き込まれ多くの民間人が巻き添えで亡くなっている。終戦後、沖縄・八重山諸島と奄美群島は日本政府の権限が及ばない米軍統治となり(奄美群島は先行して日本に復帰)、特にアジア北東部の戦略上優位な位置づけにある沖縄は、長い間米国支配の下、琉球政府という暫定民間政府の下で苦しい生活を強いられる事となる。多数の米軍基地は今でも沖縄県における大きな厄介物、お荷物であり、戦中戦後(あるいは戦前もと言った方が良いだろうか)そして今に至るまで沖縄は日本の捨石として悲惨な苦しい立場に置かれている事を忘れてはいけないだろう。
戦争末期の県民の自爆に対して軍の指導があったかどうかという件は、杓子定規な感覚で処理してしまって良いはずがない。もちろん軍本部からはそんな命令は出ていないはずだ、しかし戦局の最終段階、てんでんばらばらになり統率が取れなくなった末端の兵隊達が、民間人を道連れに自爆を図ったか、あるいは民間人に自爆を強要したかは推測の余地も無い。多くの地元民間人の口頭記述からしてあったはずだ。教科書の検定問題では全県をあげて抗議の声が挙がってももっともな事であると思っている。「沖縄県民斯く戦へり」これは沖縄の海軍司令部の大田実司令官が玉砕の前に日本の海軍次官に打電した最終報告の電文の一部である。戦闘に巻き込まれ多数の犠牲者を出した県民と、その献身的な戦争遂行の為の協力(嫌応無く選択肢はなかった)に対し、将来を慮って送ったこの電文が当事の状況の総てを語っている。
さて、書き出しの、島民念願であった日本への復帰だが、私は今でも日本に復帰せずにシンガポールの様に小さな国として独立した方が良かったのではないかと思っている。

「羊頭狗肉」
中国の宋時代に書かれた禅書に書かれている。約千年前にすでに羊の肉を売っているかの様に見せかける為に羊の頭を置き、実際は雑肉である犬の肉を売っていたという事だ。
実はこの項は、例の中国のダンボール饅頭の事件の切り口として記載し始めたのであるが、締め切り近くになって修正をしている。ミートホープ・北の恋人・赤福・お福餅・比内地鶏・吉兆と終わり無く続く日本の食品の偽装の発覚と賞味期限の改ざん。事食品の嘘偽りは食べてしまって何でもなければそれっきりなので、発覚しなければいずこも同じという事なのであろうか? 類似話は枚挙のいとまもなくまだまだ出てきそうだ。ダンボール肉饅頭はでっち上げという事で落着したが、中国では時々メチールアルコールを飲まされた人が死んだという新聞記事も出る。事、生死にかかわる食品の騙しはちょっと問題だが、日本はまだましとすべきなのか。

「ヨーロッパ・鉄道」
日本に居てはまったく気づく事もなく有り難味もまったく感じないのであるが、大方のヨーロッパ、また日本以外の多くの国の鉄道は、いわゆるバリアフリーでは無い。低いプラットフォームから見上げるヨーロッパの大きな列車は、まさに見上げる様であるが、重い大きなスーツケースを抱えた旅行者や、老人・子供にとってこれほど難儀な乗り物は無いのである。ピッチの高い列車の階段の上り下りはまさに乗るなと拒否している様にも取られる。日本の列車は総ての面で世界最高と言って良い。

「福田総理」
 政策研究大学の橋本教授は、日本と中国の関係は「出来ちゃった婚状態」と述べている。どの様な経緯があろうと、どちらがどう思おうと、どういがみ合おうと、事実は事実でもはや別れる事が出来ない。片方が病気でダメージを受けると他方も大きなダメージを蒙る。だから片方に病気の兆候でも出たら、他方が即座に看護する必要があるのだと。
福田総理へのバトンタッチの中で、我々産業界に身を置く者、特に輸出が多い会社に籍を置く者としては、靖国不参拝を旨としている部分だけは大きな安堵感がある。戦争を遂行した責任は誰かが取る必要がある。時の首相は日本の最高指導者であったのであるから責任はとるべきだ。でなければ、今の首相も戦争を起こしても責任を負う必要がないという事となる。戦争を起こした責任のある者を、無理やり徴兵された戦争の犠牲者と一緒に拝む事は許されないだろう。

「ドイツ、EMOショー」
 ドイツ、ハノーバーはメッセシティーとも呼ばれるが、広大な敷地に沢山の展示場を持ったフェアグラウンドがある。ヨーロッパ最大の機械見本市であるEMOショーが昨年10月に開催され、前回に引き続き弊社も一小間参加をした(写真)。emo1910今回の特徴は、中国の機械メーカーの出展増、インドからの多数の来訪者、引き続き減少したプレスメーカーの出展減である。前回に続き、日本の大手工作機械メーカーは広い小間と費用をふんだんにかけ活況を呈していた。会期初日は、展示会協会主催の歓迎パーティーが夜に開催されるのであるが、同日同時間に同じ建物で毎回ファナックが歓迎会を開催する。見ているとファナックの会場へ流れる客数の方が多そうなのである。それもそのはずで、展示されている工作機械などに搭載されているCNC制御装置の多くはファナック製だ。いつもの様に稲葉会長もじきじきに接待側に回る力の入れようだ。
中国製工作機械がいよいよもって国を挙げてヨーロッパへの攻勢をしかけ始めた。経済発展が著しいインド製造業の機械の買い付け物色は、買い手と商社双方の多数の訪問につながっていると見て取れる。もちろん東欧とロシアの訪問客も多かったが、ブラジルやアルゼンチン、ペルーなどの南米諸国の訪問客もあった。トルコは出展・訪問双方が多数あった。ここも経済発展が進捗していると見て取れる。
プレス機械の出展社減は、板金加工機の専門見本市への移動が主要因であろうが、もうひとつヨーロッパでは吸収合併による企業数減も響いていると見られた。ここ数年同業の会社を飲み込んだと思ったら、すぐ後ろで待ち構えていたもっと大きな会社にその会社が飲み込まれたりと、事例が多い。ドイツとイタリアでの事例が多い。イタリアでは中古機械が多数出ている。工場の閉鎖が多いのであろう。
弊社は、南米とロシアへの足がかりが少しつかめた感触がある。来年の宿題だ。

「インドの悩み」

 あまり聞く事は無いと思うが、インドのジョブホッピングは大きな問題である。現在各社一様に企業規模の拡大の一途をたどっているが、事、製造業の様に技術集約的企業は人材の育成確保は設備投資と同次元の大事な問題である。ところが、経済の急速な発展拡大に応じ、設備投資そのものは旺盛なのであるが、人材が伴わなくなって来ている。なにしろせっかく育ったと思った矢先に転職しまうのである。優秀な人材を他社からヘッドハンティングしたとたんに、子飼いの技術者が他社に取られてしまうという笑えないデスマッチも良く聞く。優秀な技術者があっちへ行ったりこっちへ来たりしつつ、インド全体の企業のレベルが上がるのであればそれこそハッピーエンドだがどうだろうか。それぞれの企業の色はそれぞれ違い、色に馴染むまでの時間ロスは大きい。また人材を失った直後のある期間のロスは大きい。場合によっては保守の不備が事故や大幅な不良を生む可能性もあり企業の存続問題に発展する可能性も否定できないのである。

「ミャンマー」 

9年ぶりにヤンゴンを訪問した。首都はすでに内陸部のネピドーに移転してしまっているのでヤンゴンは首都では無い。ちなみにネピドーは一般の外国人は立ち入り禁止である。戦後賠償sesou20NY_01として日本政府が提供した日野自

動車の技術移転の工業省直轄トラック工場は、時の流れが止まったかの様に、9年前とまったく変わらず稼動していた。なつかしいボンネットトラック(写真)である。鍛造品、鋳造品、板金フレーム、エンジン、ボルト、ばねに至るまで実に約8割が国産内製である。機械設備のほとんどは1963年製、金型もその当事のまま、9年前どころでは無く、45年近く時間が止まったまま、細々と年間200台のトラックを製造している。もちろん全量政府が買い上げている。街はあの騒動が無かったかの様にいつもと変わらない営みをしていた。日本のジャーナリストが殺害された場所も何事も無かった様な賑わいだった。

「ベトナム細長い家」
 ベトナムのビル、建物は間口が狭く奥行きが間口の数倍もある奥行きの深い細長い造りで建てられるのが常で、なぜそうなっているのか長い間不思議だった。ホーチミン、ハノイの地元の人達に聞いても、わからないという返答だ。先般のNHKのテレビで長い間の謎が解けた。中部の都市ホイアンは昔から貿易で栄えた街で、日本の商人も沢山来ており、日本橋という名称の橋もある。川岸に建てられた商家の建物は最初普通の家屋であったが、上流から来る砂の堆積で川岸は徐々に奥に移動してしまい、船からの貨物の積み下ろしの為に家屋は都度移動してしまった岸近くに増築され、いつのまにか細長い形になってしまった。
ホーチミンもハノイも川岸の都市で、おそらく同じ経緯をたどったのだろう。いつの間にか家は細長く作るものという伝統がベトナムでは根付いてしまった。

「江戸文化と現代工業」
 最近、富に江戸文化の見直しが盛んだ。(徳川将軍家第18代当主、徳川恒孝氏著、「江戸の遺伝子」に詳細が記述されているが、大変興味深い)一つは完璧なリサイクル社会であった江戸の街の営みが研究対象になっている事がある。もう一つは、そもそも江戸に幕府を開設する当初から行政は民間委託を建前としていて江戸幕府には役人の数が極端に少なく、現在の行政改革の良い指標になっている事もある。消防署は町火消しであり、警察は岡っ引きであり、市役所の業務の多くは名主や庄屋などの町人・農民が受け持っていた。もっとも注目すべき事は、このおよそ260年の間、国内で大きな戦争が無かったという事で、概ね平和裡に独特な文化を醸成したという事だ。この様に長期平和が維持できた国は他世界でエジプトだけだそうだ。この江戸の独特な文化の中にはあらゆる職人文化も含まれており、現在日本の工業力が職人芸の域のなかで特異な地位を占めているも、江戸文化の流れがまだ連綿と継続しているのに違い無いと見ている。この日本の工業における職人技術を決して絶やしてはいけない。若い人たちへの技術の伝承は、時間とお金と根気が要るが、日本の将来を考えると決して手を抜いてはいけない。新しい年の初め、若い人たちへの大きな期待を持ってまた一年をスタートしたい。貴社の本年のご多幸と御健闘をお祈りします。

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